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August 10, 2009

スペイン語に架ける恋の橋-25-

店に戻るには、あと4つ角を3つと3つ角を1つ曲がらなくてはならない。その度に見通しのきかない角を恐る恐る曲がり、その先で知った顔をいっぺんも見ずに済むことをただ祈るしかない。しかしそんな運のいい確率は10分の1位しかないだろう。夜通し続いた営業を朝方にたたむバルや、朝市へ向かう売り子達。更には、夜明けと共に起き、タバコをくゆらせたり犬の散歩をしたりする住人達が、このマドリッドの繁華街にもけっこういるものだ。
みんながみんな、緑溢れ、小鳥が心地よいさえずりを奏でる郊外の一等地に住んでるわけじゃない。脚の膝から下がはみ出す位に短く、中のスプリングがところどころ顔を出しているベッドに横たわり、酔っ払いの喚き声や救急車などの緊急自動車のサイレンで、毎晩のように3度も4度も起こされる人が大勢居る。狭いベランダに日が差すのが早朝の30分しかなく洗濯物が1日干しても乾かないので湿り気の残ったシャツを毎日来て、いつも青白い顔をしている人だって大勢居る。この大都会に24時間居続けているのはそんな人達なのだ。はっきり言って平穏な街ではないし、物価も高く、暮らし易くもない。でもここに生まれここで育ちここで泣きここで笑ってきた者には、ここに居ることが自分の存在を確認できる唯一の方法なのだ。
ラウルはこの地の生まれではないが、もう離れた場所で暮らすことなど考えられない。うるさかろうが、汚かろうが、下品だろうが、虚飾に塗れていようが、そんなことより、生きていることをいつも感じられるここにいることが心地いいのだ。特に自分のような独り身には‘それ’が必要なのだ。心が落ち着かない状態が逆に気持ちがいい。かなり逆説的だが、そんな軽い疾走感が生きている自分をいつも感じているために必要なのかもしれない。都会に住むということの、快適と不快の微妙なバランスの上に立っているという高揚感が、人をそこに留まらせているのかもしれない。
後1つ角を左に曲がれば自分の店が見えるところまで来た。道の向かい側にあるアパートの玄関には、もういつもの老人がいる。夜明けと共に起きているらしく、薄青色のシャツを着て毎朝そこに座り、噛みタバコで口を動かしている。ホセは話をしたことがない。あちらもいつもチロッと目を向けるだけだ。他人のことにあまり興味のない人なんだろう。たぶんこの牛柄女にも大した関心は示さないだろう。何事もなかったように通り過ぎればいい。そう思った時だった。
「xxxxx」。老人が手を頭上にかざしながら早口で声を発した。先ほどと一緒だ。ミゲルが発した言葉同様、ホセには聞き取れなかった。いや今度は聞き取れているが意味が分からなかった。外国人相手に商売をしているミゲルが耳慣れない言葉を知っているのはまだ分かる。この日がな噛タバコに耽っている老人が、スペイン語以外の言葉を知っているわけがない。勿論標準スペイン語と言われているカスティージャ語以外のスペイン語の可能性はあったが、毎日様々な客を相手にしているホセには、基本的に分からないスペイン国内の言語はない。ポルトガル語だって普通にいける。しかし老人の一言が全く分からないのだった。
その時だ。足が止まったホセの後ろで小さくなっていた牛柄女が大きく手を振りながら叫んだ。「ビエン、グラシアス!」
「えっ、何だって?」思わずホセは女に顔を向けて聞いた。
「元気かって聞かれたから、元気です、ありがとうって答えたの」
牛柄女は不思議そうな顔をしてホセを見つめ返してきた。
これは何なんだ。あのじいさんが言った言葉は、日常会話の基本中の基本「元気か?」だったんだ。それが何故か自分には分からない。ぐるぐると頭の中が激しく混乱する。スペイン語が分からなくなったのか。でもこの牛柄女が言ってることは分かる。じいさんとこの女は会話が成り立っている。ということは、自分とこの女との会話はスペイン語じゃないってことか?
試しにじいさんに声を掛けてみる。
「よお、おはよう。毎朝早いな」
微かな期待も空しく、老人はタバコを噛むのも忘れ、口をぽかんと開けている。

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